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・Onsen and Art / Text by Jun'ichiro ISHII / Translated by Kei Ota / in English

・温泉と芸術 髙瀬きぼりお展 / 石井潤一郎(現代美術家)/ 日本語

・髙瀬きぼりおによる主要な文章まとめ / texts by Kiborio / 日本語 / in Japanese


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・広瀬一郎(桃居)/ 日本語

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・鈴木宏信(Diginner Gallery)/ 日本語

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髙瀬さんの絵画には、美しい山並みも、ひっそりと静まりかえる湖も、髪飾りをつけた可愛い少女も登場しません。

カンバスにあるのは素っ気ない色面だけです。ただ仔細に眼を凝らすと、色の下にもう一つの色が浮かびあがり、画家の息遣いが聞こえてくるようなストロークが魅惑的に立ち上がってきます。

具象的な絵画を前にするとき、私たちはまだ「言葉」を手がかりに絵と対話を始めることができます。
花や鳥や風や月に向かって挨拶を交わすことからその世界に参入していけるのです。

アメリカのアブストラクト画家バーネット・ニューマンが1960年代にこんな言葉を残しています。

「なにかを言うことができないときに残された手段は描くことだけだ」
「最終的に、絵画の意味するところを語ることは不可能だからね」

言語によって提示不可能であり、表象不可能であるものを、私たちはたくさん抱えこんでいるようです。

言葉によって語り尽くせるものを語り尽くしたあと、私たちは沈黙します。

その沈黙のなかから、白いカンバスに向かって髙瀬さんは最初のひと刷毛を与えます。

2024年8月
広瀬一郎(桃居)





 描かれたものは或るひとつの現象としてココに在る。これは純粋なイメージとしてのこころみ、であろうか。特筆すべきは、或る現象からその成り立ちのもとへ還元することをも予め、絵をみる行為のなかに画家が組み込んでいることだ。イメージの完成のさきに還元が果てなく繰り返される様でいて、イメージすなわち還元、同時に存在するようでもある。見るという行為のなかにひそむ無意識の遊びに光をあてる作業を画家はする。
 2018年、この絵を見たとき、画家の根本を既に知ったかのような気がしており、その後の展開において、その"根本"は気まぐれでなかったか、たしかめつつ現在に至っているとおもう。先日、アトリエにお邪魔した際、愉しいものを諸処にみつけた。そのなかのひとつに、「グールドのシェーンベルク」というタイトルの本が在った。早くも、その確認作業に終止符をうつように思われた。周囲の喧騒のなかでシェーンベルクの音楽は美しい沈黙を奏でた。画家の客観性を欠いた、普遍美をもたない制作がそれと同様の音を持っているようにおもわれたからだ。なぜこの本を持っているのかと尋ねると、インタビューのなかにジョン・ケージが登場する、その一幕が好きなのだと。わたしの早合点であったが、焦点は同じなのだった。沈黙を語る、画家とのおしゃべりは止まらない。

2021年
吉田智香(而二不二)





四角いキャンバスを変形させたシェイプド・キャンバスは、かつてモダンアートが辿った王道である。 しかし、きぼりおはイメージに近づける為に意図して変形という操作を加えるのでなく、 木枠という矩形自体に疑問を持ち、それを変形させることで偶然成り立つ物体としての存在に着目する。 存続性などを無視したキャンバスは、異形の支持体へと変わるが、それを物質として存在させるため きぼりおが筆を加えるのである。

2019年
鈴木宏信(Diginner Gallery)




きぼりおの絵や日常の言動には、いつも素直さを感じる。
この素直さはいっけん自由で朗らかだけど、剥き出しで鋭利。
この姿勢を保つにはかなりの厳しさも必要だから、時に強く自分に課しているのかもしれない。

そして、彼は大量に描く。
何度も描くけど、
毎回はじめてみたいに。
自分をキャンバスに放ち、水鏡を覗くように一心に変化を見つめ続ける姿は、修行僧のようでいて不思議がりの子供みたいだ。

そんな軽やかなストイックさを画面から感じる度、常日頃つい怠けて流されがちな私は背筋がのびる。
角度を変えてみるだけで、意外な場所に新鮮な世界が隠れているのだったと思い出させてもらう。

「描く時に何が起きてるのか、知りたい」
「絵を知るために作ってる」
という彼の言葉に、思わず大きく頷いた。
描くことでしか発見できない楽しさともどかしさを味わいながら、
彼は世界と大きなバランスをとっているのかもしれない。

版画家 富田恵子




「高瀬きぼりお考」荒谷大輔

 僕は物事に真剣に向き合わない人間がきらいだ。だから、何となくおしゃれとか、おれ現代アートわかってる風なノリで作品が消費されることが耐えられない。社交上、そういう人とも仲良く話をしてるように装うが、その実、アート業界の救いようのない現状にウンザリしてたりする。
 でも、きぼりおさんは違う。展覧会に来た人と誰彼なく実に楽しそうに話す。何か面白いことがそこから落ちないか、子供のような無邪気さで、小猿がそこら中でいたずらして回るかのように話している。ホッピーを片手に酔っ払いながら。
 おそらくはそれは、きぼりおさんが作品を作り続ける姿勢と同じ根っこを持っているのだと思った。きぼりおさんの作品は毎回違ってどんな作風かよくわからないという人もいるが、そんなことはない。遊びを引き出す素材が違っているだけで、作品には一貫した「きぼりお性」なるものが満ちているように思う。作品に溢れる「きぼりお性」が、展覧会で話すきぼりおさんにも見出されるように思えるのだ。
 では「きぼりお性」とは何か。それは、予測不可能なものへの信頼だといってみたい。ウェットさは微塵もなく、超越的なものへの信仰とも違う。ドライというのも、ウェットさの裏返しみたいで違うし、愛に満ちているかといえばもうちょっと覚めている。しかし、そこには新しく立ち現れる何かへの絶大なる信頼がある。「これメッチャ面白いと思うんだけど」という提案が、本当に楽しそうに作品として実を結んでいる。作品を観る側は(きぼりおさん本人はもはやそこにいなくてもいい)、「え、これおもろいんか」と多少困惑しつつも、作品に溢れる「きぼりお性」を前に「楽しそうだな」と思わざるを得ない。わけはわからなくてもとりあえずいい。「きぼりお性」に浴するだけで十分である。一緒に飛び跳ねるほど子どもになれなくても、何かの扉が開く音を聞くことはできるだろう。当のきぼりおさんはといえば、その音を目ざとく聞きつけて、扉から出てくるものを相手にまた勝手に遊びはじめるのであるが。




Please thank the painter who sent me photos of his work. He is obviously talented and his work is strongly reminiscent of German Expressionism. I presume he knows this, but it struck me. I wish him great success with his work.

2008
Steve Reich


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